ジュエリーサロン石垣の歴史
※創業の年を1878年(明治11年)としましたのは、初代の正確な創業年月を確認出来る資料が、戦災(昭和20年6月・四日市空襲)によりすべて焼失しましたので、2代目が装身具製作(金・銀細工)を始めた年を正式な創業年としました。
・口伝として江戸末期、黒船が日本に来航した時(1853年・嘉永6年)には現地で商いをしていたと語り継がれています。
《歴代の店主》
1848年頃?~
初代【久助】
1878年~
2代目【久兵衛】(職人)
3代目【久次郎】(職人)
4代目【龍太郎(東岷)】(職人)
5代目【良一】(職人)
6代目【佳弘】(職人)←現店主
7代目予定【佳敬】(職人)
・当店は初代を除き、2代目~7代目まで6代続けての“宝飾加工職人”です。
~当店の主な歴史~
1848年頃嘉永元年 |
・この頃、初代『久助』が現地にて小間物商(女性の装身具・化粧道具等を販売)として出発したとされている。【※正確な資料は、戦災(昭和20年6月・四日市空襲)により焼失】 |
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1853年嘉永6年 |
・ペリー提督が黒船で日本に来航。◆当店はこの時点で、現地で既に商いをしていたと口伝で語り継がれています。 |
1878年明治11年 |
・2代目店主『久兵衛』が自店にて、帯留、髪飾り等の金・銀細工品の製作を手掛け始める。【※資料が残るこの年を、創業年とさせていただいております】 |
1945年昭和20年 |
・昭和20年6月、四日市空襲により店舗、住居、家財一切を焼失。 |
1946年昭和21年 |
・戦後間もない頃から店舗を建て替え、再開し始める。 |
1991年平成3年~ |
・現在の新店舗へ建て替え“ジュエリーサロン石垣”完成現在に至る… |
~国内・世界の主な出来事~
1848年弘化5年 |
・アメリカのカリフォルニアで金鉱が見つかる。世界的に有名なカリフォルニアでの『ゴールド=ラッシュ』が巻き起こる。宝飾品やジュエリーにとっては、大きな出来事。 |
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1864年元治元年 |
・新選組による襲撃、【池田屋事件】が起こる。 |
1876年明治9年 |
・『グラハム=ベル』が電話機を発明。・日本で、廃刀令が施行される。 |
1945年昭和20年 |
・第二次世界大戦終戦。 |
1959年昭和34年 |
・昭和34年9月『伊勢湾台風』により三重県も甚大な被害を受ける。 |
1991年平成3年 |
・『湾岸戦争』勃発。
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*約120年前、当店に残る最古の店舗写真。 (1904年・明治37年)
・1904年の店舗写真、この頃から今と変わらぬ場所にて「装身具」などを自店にて製作しておりました。
入り口には、「石垣」の文字が見えます。
・100年以上前のため、店舗の外観、隣家など現在と全く異なった雰囲気です。
当時は、前の通りも栄えていたとの事です。
・『タイタニックの沈没事故』が、1912年の出来事ですので、あの事件よりさらに8年前の写真、その歴史がお分かりいただけるかと思います。
*大変多くのお客様に支えられて約160年以上に亘り、変わらぬ場所で商売を続けております。
*約86年前、戦前の店舗 (1936年・昭和11年)
・1936年の当店、この頃から変わらず現地にて「宝飾・貴金属専門店」を営んでいました。
当時の屋号は、「石垣宝飾店」です。
・看板には当店で代々使用されている勾玉のマークが見え、
店舗左側のガラス戸には「貴金属品製作・修理」の文字が見えます。
・四日市市商工会議所主催の
《昭和十年三月ウインド競技会一等受賞》
・写真の店舗は、残念ながら1945年(昭和20年6月)の【四日市空襲】により焼失してしまいました。
◆空襲の時、写真など大事な物は市内の松本に疎開させていたため、状態も良く多く残っております。
*1912年頃(大正初期)の帯留
・約100年以上前のK18帯留です。
・大正初期の品物で、当時としては大変高価な装飾品であったと思われます。
当時の帯留なので、当然すべて完全手造りで造られています。
【製作者・不明】
(当店の参考品として保管)
*1935年頃(昭和初期)のK18オパール指輪
・約80年前製作の、天然オパール・真珠(ケシ珠)を使用したK18製の指輪です。
・当然ながら、当時の指輪のため全て手造りで製作されています。側面写真の真珠が留まっている台座は、板地金から全てヤスリでスリ出されているようです。
指輪の内側から撮影した写真で、お分かりいただけるかと思いますが、指輪の付け根の箇所が“V字”に黒くなっているのは、『ロウ目』が酸化している状態です。これは指輪の“腕”をV字状に丁寧に削ってロウ付けされている証拠です。
・写真の様に、確かな技術で非常に丁寧に造られた指輪です。石の素材としては決して高額な物ではないのですが、製作した職人さんの“造り”に対する妥協なき姿勢が伺えます。
このような宝飾品を見ると、当時の職人さんに対して尊敬の念を抱かずにはいられません。
・昔の方が質の高い物が作られていたという話をよく聞きますが、このような品物を見ると正に実感します。
約80年前の戦前の頃は、現在の様に便利な工具も無かった時代です、造るのに非常に手間が掛かったと思われます。それにも関わらず当時のほうが質の高い宝飾品が多い様に感じます。
・現代のジュエリーは『原型』や『CAD』を使用したキャスト(鋳造)での大量生産が主流です。
・キャストの全てが悪いとは思いませんが、【宝飾品の展示会】などで超高額品のジュエリーでも既製の『空枠』に留めてあるだけのジュエリーをよく見かけます。
【デザイン・造り・彫り・留め】などにこだわって、本当に手の込んだ質の高い宝飾品を造ろうとしている会社は少ないように感じます…
【製作者・不明】
(当店の参考品として保管)
*1935年頃(昭和初期)の帯留
・SPM(サンプラチナ)製、合成石入りの帯留です。
*SPMとは【Sun Platinum Metal】の略で、ニッケルを主成分とした【白金色合金】。1930年に開発されたとの事。
・まだ、一般庶民にとってシルバーやプラチナが大変高価な時代、代用としてSPM(サンプラチナ)を使用した、宝飾品が数多く作られていました。
・これらも完全に手造りで造られています。
この時代のSPMで作られた装身具は、かなり手間の掛かった品物が多いです。
【製作者・不明】
(当店の参考品として保管)
*1935年頃(昭和初期)のブローチ
・約80年前、戦前のブローチです。刻印が無くハッキリとわかりませんが、恐らくSPM(サンプラチナ)製です。
・中心のマーキス型の石は外してありますが、三角形の石、エメラルドのような石、両方とも合成石です。
・この品物も勿論【完全手造り】で丁寧に造られ、ミル打ち、彫刻がブローチ全体に施されています。
【製作者・不明】
(当店の参考品として保管)
*1935年頃(昭和初期)の帯留
・SPM製、合成石入りの帯留です。
・約80年以上経過しているため、中石・レール留めの合成石の大半は、外れてしまっていますが、左端に2p緑色の石が残っています。
・この品物も【完全手造り】で、非常に繊細かつ、高度な技術で作られています。
ミル打ちなどが非常に丁寧に、帯留全体に施されています。
【製作者・不明】
(当店の参考品として保管)
*1946年頃(昭和20年代)のデザイン画
・4代目店主・石垣 東岷(とうみん)の図案帳の一部です。
・サファイア、エメラルド、真珠が幾つ必要か等が、書かれています。
・約70年前に描かれたデザイン画です。
*1946年頃(昭和20年代)に作られた純金煙管
・この煙管(きせる)はすべて純金(K24)で、【完全手造り】で造られた煙管です。(茶色の柄の部分は、純金ではありません)
*純金製ではありませんが、この様な煙管のご注文をいただく事も、大正~昭和初期にかけてありました。
・この煙管は、4代目店主・東岷(とうみん)が作った物で、現在の私共では、手造りで作ることが出来ません。
【製作者・4代目、東岷】
(当店の参考品として保管)
*1946年頃(昭和20年代)の高彫り指輪
・この指輪は、純金で出来た【高彫り】指輪です。(一部プラチナ張り)
*高彫りとは、模様を高く浮き上がらせる様に彫る事。
・約70年近く昔に作られた指輪でありながら、非常に高い技術で作られています。
・60年以上昔は、宝飾品業界では現代の様な【キャスト】(鋳造)の技術がありませんでした。そのためどんな装飾品であろうと、すべて手作りで作られています。
(日本でのジュエリー製品の鋳造技術は、1960年・昭和35年頃に確立されたはずです)
【製作者・4代目、東岷】
(当店の参考品として保管)
*1946年頃(昭和20年代)のデザイン画
・4代目店主・石垣 東岷(とうみん)の図案帳の一部です。
*1946年頃(昭和20年代)の指輪
・K18/Pt(イニシャルのみPt)ダイヤ入り、メンズリングです。
リングの両脇にダイヤを埋め込み、周りに彫刻で模様が施されています。
このリングもすべて手造りです。
【製作者・5代目、良一】
(当店の参考品として保管)
*1946年頃(昭和20年代)の真珠リング
・戦後間もない頃に製作されたと思われるK18リングです。
シンプルなリングですが、非常に丁寧に作られています。勿論すべて手造りです。
【製作者・5代目、良一】
(当店の参考品として保管)
*1965年頃(昭和40年)の店内写真
・戦後に建てられた当店の店舗内写真。
・約60年前の写真。
*2015年現在の外観、店内の写真です。